仏像・宝物・お墓

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本尊阿弥陀如来座像(市指定文化財登録)、絹本著色仏涅槃図・龍図・著名人の墓などを始め、豊臣秀吉ゆかりの宝物を所蔵しております。
仏像
阿弥陀如来坐像

※像高87.4cm・木造・平安後期

あみだにょらいざぞう

阿弥陀如来坐像

銀山寺の本尊で、恵心僧都源信の作と伝えられており、定印を結び、蓮華座上に結跏趺坐(けっかふざ)されております。
檜の寄木造りで、頭・体部はそれぞれ前後二枚矧(は)ぎとし、膝前に一材をあてております。表面は後世の漆泊(しっぱく)に覆われておりますが、穏やかな表情や衣文に平安後期の特徴がよく表されています。
(大阪市指定文化財)
阿弥陀如来立像

※像高77.5cm・木造・平安後期

あみだにょらいりゅうぞう

阿弥陀如来立像

創建当初の本尊で、恵心僧都源信の作と伝えられており、来迎印を結び、蓮華座上の直立されております。
杉と思われる材の一木造で、両手は後補。表面の一部に金箔が残り、右肩や背面に貝殻が付着していることから、海中から引き上げられた仏像と考えられております。
※秘仏のため、写真は掲載しておりません。ご覧になりたい方は、銀山寺の寺誌をご覧ください。
千手観音坐像

※木造・室町時代

せんじゅかんのんざぞう

千手観音坐像

宝樹堂(旧観音堂)の本尊で、四十二臂の十一面観音の小像。
寄木造で玉眼を嵌入し、表面に漆箔を施しております。多少かたい表情や衣文の整え方から、室町時代の作と考えられております。
不動明王立像

※木造・江戸時代

ふどうみょうおうりゅうぞう

不動明王立像

千手観音坐像の脇侍像。観音像の脇に毘沙門天と併せて不動明王を祀る方式は、天台系の寺院でよく見られます。
玉眼を嵌入し、彩色がよく残っております。
毘沙門天立像

※木造・江戸時代

びしゃもんてんりゅうぞう

毘沙門天立像

千手観音坐像の脇侍像。観音像の脇に不動明王と併せて毘沙門天を祀る方式は、天台系の寺院でよく見られます。
玉眼を嵌入し、彩色がよく残っております。
毘沙門天立像

※昭和61年(1986)建立

たんじょうぶつ

誕生仏

釈尊は誕生と共に7歩歩かれ、「天上天下唯我独尊」と発せられたという故事を表したもの。
この下は空井戸となっており、大阪城からの抜け道であると伝わっております。
苦行仏

 

くぎょうぶつ

苦行仏

「血もかれよ。肉もただれよ。骨も腐れよ。悟りを得るまでは私はこの座を立たないであろう。」と菩提樹の下に座られ、49日間の瞑想を行われ、12月8日、暁の明星がまだ消えぬ未明、35歳の釈尊は仏陀(目ざめた人)となられました。
29歳で出家されて以来、6年目のことである。
本像は苦行の末、仏陀となられる直前のお姿です。
雨宝童子立像

 

うほうどうじりゅうぞう

雨宝童子立像

太閤秀吉の守り本尊。「寶樹尊」の墨書銘があります。
法然上人枕の御影

 

ほうねんしょうにんまくらのみえい

法然上人枕の御影

円光大師御遺跡廿 五箇所案内記(1766年(明和3)刊:霊沢著)に、「當寺におさめ奉る大しの御そん影ハ、枕の御影というふ。御師はん慈眼房の御木枕にて、作らせ給ふといゝ傅ふ。」と記載されております。
法然上人が師匠の慈眼房の使っておられた枕木を利用して、ご自身のお姿を彫られたものであることがわかります。
宝物
豊臣秀吉肖像画・御召緒太・豊臣秀吉朱印状

※大阪城にて保管

とよとみひでよししょうぞうが・おめぶと・とよとみひでよししゅいんじょう

豊臣秀吉肖像画・御召緒太・豊臣秀吉朱印状

豊臣秀吉肖像画は狩野山楽筆と伝えられております。
御召緒太は、宮中において天皇が使われるもの。後陽成天皇が太閤秀吉に下賜され、それを銀山寺に太閤が再下賜されたと伝えられております。
豊臣秀吉朱印状は1587年(天正15年)の九州攻めの時の命令書で、赤間関で九州へいよいよ攻め入るための陣立てを定めたものです。
※写真は掲載しておりません。ご覧になりたい方は、銀山寺の寺誌をご覧ください。
※横幅約4m・桃山時代~江戸時代

※横幅約4m・桃山時代~江戸時代

けんぽんちゃくしょくぶつねはんず

絹本著色仏涅槃図

横幅約4メートルの大幅で、沙羅双樹のもと入滅せんとする釈迦を中央に描き、両端には釈迦八相図を描き添えてあります。
由緒書

 

ゆいしょがき

由緒書

正式名称「寶樹山銀山寺興隆 本尊阿弥陀如来本堂安置并観世音菩薩地蔵菩薩来由記」
銀山寺の由緒を書いたもので、一時軒惟中(岡西惟中)の書です。また作者は不明ですが、それを書き写したものもあります。題名通り、寺の興隆と本尊、観音菩薩、地蔵菩薩が銀山寺にもたらされたことが書いてあります。
※銀山寺の寺誌には、読み下しを掲載しております。
龍図

※江戸後期

りゅうず

龍図

本堂内両脇壇の天井に1枚ずつ描かれた紙本墨画の龍の図。作者は江戸後期の京都の絵師で狩野鶴沢派の江村春甫です。
駕籠

 

かご

駕籠

当時の住職が代々使用した駕籠。今なおきれいな形で残されております。
著名人・学者たちのお墓
岡西惟中と妻の墓

おかにしいちゅうとつまのはか

岡西惟中と妻の墓

岡西(岳西)氏は名を勝、通称平吉または松永氏を名乗る。一時軒、閑々翁、竹馬童子、飯袋子(ハンタイシ)、北水浪士等と号していました。1639年(寛永16)因幡国鳥取に生まれ、1678年(延宝6)大阪に移り、1711年(正徳1)10月26日73歳で没、当山境内墓地へ土葬されました。年少の頃から俳諧と書道を好み、俳諧は西山宗因に、書道は青蓮院尊証法親王に、和歌は関盛貞および烏丸光広に、連歌は里村昌程に、漢詩は南源大和尚に学び、若くして博学多識で知られました。氏は俳諧、和歌、連歌等に関しては多数の著書があって有名であるが、自らの本職であった医、儒に関しては詳細不明です。
岡西氏は当時檀中の有力者であった河崎氏(鉄問屋川崎屋)の懇望により銀山寺の縁起「寶樹山銀山寺興隆来由記」を執筆完成されたこと、また本堂前の山額に「寶樹山」と揮毫されたこと、さらに氏の晩年である1705年(宝永2)5月20日から23日まで、銀山寺において連歌会を興行されたことなど、当寺と密接な関係にありました。
お千代・半兵衛の比翼塚

おちよ・はんべえのひよくづか

お千代・半兵衛の比翼塚

1722年(享保7)4月6日、大坂油掛町の八百屋半兵衛と妻お千代が生玉の大仏勧進所で心中しました。
半兵衛は八百屋仁右衛門の養子。半兵衛の旅行中に、妻お千代が養母によって離縁され、帰ってきた半兵衛は養母の翻意に努力するが果たせない。養母がお千代を離縁したのは、高額の持参金付の嫁を迎えたいためでありました。この真相が世間に知れて養母の立場が悪くなるのを恐れた半兵衛は、死を覚悟し、自分がお千代を離縁したと狂言。そしてお千代を連れて密かに家を出、心中を遂げました。庚申の夜のことでした。この心中事件は、その直後に紀海音「心中二ツ腹帯」、近松門左衛門「心中宵庚申」(以上浄瑠璃)、また「新板宵庚申」(歌舞伎)に脚色されたが、特に「新板宵庚申」は大当たりをとり、そのため世上に広く知られた心中事件となりました。お千代は24歳で身ごもっており、銀山寺の墓石にはその子のことが「離身童子」と記されております。過去帳にはお千代は川﨑や源兵衛の養子娘で油掛町八百屋半兵衛の妻、山城上田村平右衛門妹と記されております。川崎屋は代々当寺の檀家であり、この墓は「比翼塚」と言われています。
松本寛吾・乾知の墓

まつもとかんご・かんちのはか

松本寛吾・乾知の墓

寛吾の墓には、「石鉄松本先生墓」とあります。
石鉄は号で、寛吾は通称、名は通業。伊予の出身で、京都の海上隨鷗(稲村三伯)門人。船場で開業し、蘭方医として名を知られておりました。銀山寺の過去帳には、1835年(天保6)の頃に「土葬3月16日松林院石鉄居士45歳枩本寛吾」と記載されております。(枩は松の旧字)乾知は寛吾の子で通称保三郎。伊予で生まれ、年少で豊後日田広瀬淡窓に学びましたが、13歳の時上坂し、元大坂町奉行与力で陽明学者の大塩平八郎中斎の門人になりました。16~17歳の頃すでに成人の如しとその秀才をうたわれましたが、1835年(天保6)7月16日23歳で病死しました。中斎は乾知の早逝を深く惜しんだといいます。
中斎の撰文で門人松浦誠之の筆になる碑文は、惜しくも剥落が著しいですが、中斎の撰文で現存しているのはこの墓碑銘だけといわれております。
金子徳崇の墓

かねこのりむねのはか

金子徳崇の墓

本姓は岡、名は通称清蔵、希山と号しました。相模の国小田原、大久保侯の世臣金子徳辰の子であります。
1736年(元文1)命によって職に就き、父に従って大坂藩邸に来られました。性敬慎率直、常に経史を読み、儒学を深めましたが、1742年(寛保2)5月28日病没し、世人に惜しまれました。
六無管名先生の墓

ろくむかんみょうせんせいのはか

六無管名先生の墓

戒名は観山六無居士。官名は熊五良。1822年(文政5)9月22日没
京巌熊見先生の墓

きょうがんくまみせんせいのはか

京巌熊見先生の墓

戒名は見樹院得法京巌居士。俗名熊見三竹。1839年(天保10)4月14日没。妻の戒名は春花妙瑞信女で、1840年(天保11)3月16日没。台石に嶋屋重兵衛とありますが、関係は不明です。
吉田玉男の墓

よしだたまおのはか

吉田玉男の墓

1919年(大正8)1月7日生まれ。昭和・平成期の人形浄瑠璃文楽の人形遣い。本名・上田末一(うえだすえいち)。大阪府大阪市に生まれ、1933年(昭和8)吉田玉次郎に入門し、玉男と名乗る。立役(男役)。
戦中二度出征。戦後『曽根崎心中』の徳兵衛役が当たり役となり、生涯で1136回務めました。抑制の効いた、理知的な動きの中に、秘めた情感や品良き色香を表現し、その技は最高峰と謳われました。1977年(昭和52)重要無形文化財保持者(人間国宝)認定、1989年(平成1)勲四等旭日小綬章受章、1997年(平成9)朝日賞受賞、2000年(平成12)文化功労者、2003年(平成15)京都賞(思想・芸術部門)受賞。
2006年(平成18)9月24日、肺炎のため逝去。享年87歳。
国立文楽劇場が近く、お千代半兵衛の比翼塚が銀山寺にあるため墓地を生前に購入されました。竿石の字は本人の直筆です。
寺誌
銀山寺

※ オールカラー・コート紙

 

一部:500円
(送料:別途200円)

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